責任逃れの言い回し。
今月のカレンダーにある言葉
「秋こぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかされる」
古今和歌集なんて全然なじみがないものですから、調べてみました。
詠み手は、藤原敏行。
意味はだいたい想像がつきますね。
ただ、「さやか」って言葉と「おどろかれぬ」って言葉に惑わされます。
「さやか」は「はっきりと」
「おどろかれね」は「気づいた、感じた」って意味らしいです。
風の音って言う意味では、先日の爆弾低気圧には「感じた」って意味ではなく、本当に「おどろかされる」事になりました。
言葉ってのは、時代を追う毎にその意味が変わっていきます。
現代の「やばい」も、自分としては好きではないのですが、社会的には認知されつつありますね。
その時と場合によって、「やばい」のか「ヤバイ」のか?
聞き手の方が判断しなくてはいけない。
こんな事で悩まなくてはいけないのは、日本語独特の世界観です。
自分の想いを相手に伝える為にあるツール。それが言葉や文字です。
それが、相手に解釈を任せることで良しとしてしまう。
言葉の語尾に「みたいな」を付けてしまうのも、自分主体ではなく、相手に判断を任せるってこと。
これ、日本人が話すことを英語に訳すと、ほとんどの事がアバウトになってしまうってことです。
後出しジャンケンのようにも感じます。
相手によって、「そんなつもりではなかった」と言い換えることができる。
和歌や短歌の世界ならそれでも良いし、想像の幅を持たせる為の表現なんですけどね。
政治家さんや官僚さん達も、この日本語の幅を悪い意味で、大いに利用しているように感じます。

