2022年09月26日

「 与えられた器の分だけ 」




何らかの「実」は実る



ウチの小さな裏庭には実の成る木が2本あります。
何代上の先祖が植えたのかはわかりません。

一つは白樫の木で、屋根の高さまで達するほど育っていて、ドングリが実をつけます。
もう一つは、クルミの木でこれは何年も前に枯れて切り倒したのですが、その横の地面に芽が出て成長し、今では実をつけます。

実をつけると言うのは、縁起がいいのでしょうか?
多分そう考えて植えたのだと思います。

人生を生き抜いて、人は何かしら得るものだと思います。
これが、実をつけるということに繋がると思うのですが、大きな実を付けるのか、小さな実で終わるかは生きて見ないと分からない。
しかも何をもって大きいのかもよく分からない。

でも、この木達は恐らく何代もの市村家を見て来たはずなのです。
今の自分は、その何代も上の人達と比べてどれだけの実を付けられているんだろうか?
そして、我が子はどれだけの実を付けることができるのだろうか?

ついついそんな事を考えてしまうのですが、比べる必要はないのです。
与えられた自分の器に入るだけの精一杯の実を実らせればいい。

比べることは、白樫の木に任せましょう。


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posted by JUNICHI ICHIMURA at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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